【下町】短編小説『3分遅れ』

午後3時を過ぎると、商店街は急に静かになる。

八百屋の店先から段ボールが消え、乾物屋のシャッターが重そうな音を立てて下りていく。冬の風は、人が減った通りほどよく通る。

野崎賢一は、その音を聞きながら腕時計の裏蓋を閉めていた。

小さなネジをピンセットで摘み、慎重に締める。作業台のライトだけが、薄暗い店の中を照らしている。

店の奥で、柱時計が少し遅れて時を打った。

コン、コン。

「また遅れてるな」

賢一は脚立を引き寄せ、針を直した。

毎日合わせても、翌日にはまたズレる。

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入口のガラス戸が鳴った。

「すみません」

入ってきたのは、灰色のコートを着た老婦人だった。小さな革の鞄から、古い婦人用の腕時計を取り出す。

細い針は10時12分で止まっていた。

賢一はルーペを目に当てた。歯車は摩耗し、部品も古い。

「……難しいですね。部品が、もうありません」

婦人は少しだけ笑った。

「そうですか」

指先が、時計の縁をなぞった。

婦人の指先には薄いシミが浮いていた。

婦人は時計を掌に載せたまま黙っていた。

風防の傷に、冬の光が細く引っ掛かっていた。

「主人のなんです」

「ずっと引き出しに入ってました」

賢一は顔を上げた。

婦人は止まった針を指でそっと撫でた。

賢一はルーペを外したまま、机の上のネジを並べ直した。

*

夕方、息子の優太が来た。

紺色のコートの肩に、冷たい外気の匂いが残っていた。

「決まったよ」と優太は言った。「春だって」

優太が話している間にも、電線の鳥が一羽ずつ飛び立っていった。

「春か」

「……」

「······親父」

作業台の上で、秒針だけが小さく動いていた。

「······」

賢一は裏蓋を布の上に置いた。

優太は窓の外を見た。

向かいの乾物屋の看板が、夕方の光で少し白く見えた。

*

夜。

店を閉めたあと、賢一は奥の棚を片付けていた。

古い部品箱の奥から、妻のエプロンが出てきた。洗剤の残り香とも違う、古い木綿の匂いがふっと立った。

 

「また時計ばっかり見てる」

「お客さん来てるのに聞こえてないでしょ?」

「聞いてる?」

「聞いてる」

「ほんとに?」

美佐子はそう言って、暖簾の曲がった端を直した。それから店先の植木鉢を少しだけ動かした。

店の暖簾は、なぜかいつも少しだけ傾いていた。

祭りのあとの夜を思い出した。

提灯の赤い光が風で揺れ、濡れたアスファルトの上をゆっくり流れていた。

遠くで鉄パイプを外す音がした。

『今日は鯖、なかったね』

売上帳は開いたままだった。

エプロンのポケットから、「おでんの具、足りなかったら帰りに買うこと」と書かれた小さな紙切れが出てきた。

美佐子の字だった。

賢一は紙切れを折り直した。

折り目の中でも、「足りなかったら」の文字だけが濃かった。

*

数日後。

乾物屋が店を閉めた。

店主は笑いながら「疲れたよ」と言った。シャッターを下ろす手が、途中で一度止まった。

シャッターの音が、冷えた空気を震わせながら、商店街の奥へ消えていった。

賢一は棚の奥の時計を見つめた。

捨てようと思って箱を出すと、その中に、美佐子へ贈った小さな腕時計があった。

銀色の細い時計。

結婚20年のとき、無理して買ったものだった。

賢一はゼンマイを巻いた。動かない。耳を近づけた。

カチ。

賢一は、そのまま動かなかった。

*

翌日。

午後3時。

冬の日差しは低く、向かいの店の影が商店街の半分を覆っていた。

賢一は店先に椅子を出して座っていた。

小さな女の子が立ち止まる。

「時計屋さん?」

「ああ」

女の子はランドセルから腕時計を取り出した。安い子ども用の時計だった。

「おじいちゃんの」

賢一は受け取った。

電池切れだった。裏蓋を開け、小さな電池を交換する。

秒針が動き出した。

「動いた!」

女の子は時計を両手で包むように持ち、何度も頭を下げて、母親の元へ戻っていった。

カウンターの上には、飴玉がひとつ残っていた。

賢一はしばらくそれを片付けなかった。

*

店の前に一台の車が止まった。

優太だった。

助手席の窓が開く。

「親父」

後部座席から、小さな男の子が顔を出した。

「じいちゃん!」

賢一は目を見開いた。

最後に会ったとき、その子はまだ抱かれていた。

男の子は腕に小さな玩具時計を巻いていた。

「なおる?」

優太が苦笑する。「昨日、壊れたらしい」

賢一は男の子の手元を見た。

「……見せてみろ」

男の子が店へ駆け込んでくる。

 

柱時計は相変わらず3分遅れていた。

老眼鏡を探そうとして、手が止まる。

棚の端にあった。

ふと入口を見ると、暖簾の端が少しだけ曲がっていた。

賢一は立ち上がり、それを真っ直ぐに直した。

外で、シャッターの音がした。

賢一は玩具時計の裏蓋を開いた。

作業台の灯りが、玩具時計と賢一の指先を照らしていた。

店の奥で、柱時計が遅れたまま時を刻んだ。

終

 

この作品は【下町】短編小説の一編です。
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