【下町】短編小説『最後の看板』

11月の河川敷は、風だけが先に冬になっていた。

荒川の水面は鈍く光り、土手の枯れ草が同じ向きに倒れている。少年野球場のバックネットでは、古びた金網が風を受けるたび、かすかに鳴った。白線の粉はところどころ薄くなり、ベンチの青いペンキは剥げている。遠くで電車が橋を渡る音がして、その下を白い鳥が一羽、川に沿って流れていった。

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榊原浩一は脚立の3段目に片足をかけ、錆びたボルトをゆっくり回していた。

看板には、かすれた青い文字で「山田製作所」とある。40年近く前、浩一がまだ30にもならない頃に描いたものだった。白地に青。端には小さく、野球のボールを描いた。注文した先代社長が「子どもが喜ぶから」と言ったのを覚えている。

最後のボルトが外れると、看板は思ったより軽く腕に落ちてきた。

「軽くなったな」

誰に言うでもなく呟いた。

山田製作所は、先月で閉じた。工場の前を通ると、昼休みに聞こえていた金属を削る音も、ラジオの野球中継も消えていた。看板を外してほしいと頼みに来たのは、社長の息子だった。申し訳なさそうに頭を下げ、「親父が、榊原さんに頼めって」と言った。

グラウンドでは、小学生たちがノックを受けていた。

「腰落とせ、腰!」

若い女の声が風に混じる。キャップをかぶった監督らしい女が、バットを片手に立っていた。子どもたちは土ぼこりを上げながら走る。外した看板を見ている者はいない。

浩一は看板を軽トラックの荷台に寝かせ、毛布をかけた。指先には、古い塗料の粉がついていた。青でも白でもない、時間の色だった。

家に戻ると、店の奥は冷えていた。

榊原看板店は、住宅と小さな町工場に挟まれた路地にあった。夕方になると、裏の工場から機械油の匂いが流れ、古い換気扇がからからと鳴る。父の代からの木の看板が、入口の上に残っている。

店内には筆、刷毛、塗料缶、昔の注文帳が積まれていた。壁には、これまで作った看板の写真が何枚も貼ってある。豆腐屋、自転車屋、銭湯、町工場、少年野球チーム。写真の中の人たちは、みな少し若い。

作業台の端には、失敗した文字を書いた紙が重なっていた。最近は、線の終わりが思った場所に止まらない。仕事が減ったことより、そのことの方が、浩一にはこたえていた。

奥の丸椅子には、誰も座っていない。妻の恵子がよくそこに腰掛け、湯呑みを両手で包んでいた。浩一はその椅子を見ないようにして、入口のガラス戸に紙を貼った。

年内をもちまして閉店いたします。

字が少し曲がった。貼り直そうとして、やめた。

翌週の午後、店に若い女が来た。

「榊原さんですか」

河川敷でノックを打っていた女だった。黒いキャップを脱ぐと、額に薄く汗の跡が残っていた。

「森下彩乃です。東陽ファルコンズの」

「ああ、あの野球の」

「お願いがあって来ました」

彩乃は帽子のつばを指で押さえた。

「野球場の看板です。新しく作りたくて」

浩一は湯呑みに入れた茶を見た。表面に小さな茶柱が浮いている。

「悪いけど、もう閉めるんだ。印刷なら安く作れる。ネットで頼めば早い」

「分かってます」

彩乃は鞄から一枚の写真を出した。

色あせた卒団写真だった。ユニフォーム姿の子どもたちが、バックネットの前に並んでいる。後ろには、浩一が昔描いた「東陽ファルコンズ」の看板が写っていた。右端に、若い男が腕を組んで立っている。

「父です。前の監督でした」

浩一は写真を手に取った。若い男の笑い方に見覚えがあった。確か、いつも声の大きい男だった。看板の納品の日に、缶コーヒーを二本持ってきた。

「森下……誠さんか」

「はい」

「声がでかかった」

彩乃が少し笑った。

「家でも、でかかったです」

浩一は写真を返した。

「手が、もう昔ほど動かないよ」

「それでも、榊原さんの字がいいんです」

彩乃は言ってから、少し俯いた。

「すみません。変な頼み方で」

頼み慣れていない人間の声だった。

浩一は断るつもりで口を開いたが、言葉が出なかった。

「一度、グラウンドを見てからでもいいですから」

彩乃はそう言って、また帽子のつばを押さえた。

数日後、浩一は河川敷へ行った。

バックネット沿いには、スポンサー看板がまだ何枚も残っていた。中村豆腐店、高橋自転車、山口鉄工、大黒印刷。どれも浩一の字だった。ところどころ塗料が浮き、角が反っている。それでも文字は、川から吹く風の中で踏ん張っていた。

中村豆腐店は、もうない。高橋自転車の親父は、去年、腰を悪くして店を閉めた。山口鉄工の二代目は、今も朝早くからシャッターを開けている。土手を下りてくる自転車のかごには、買い物袋や子どものグローブが入っていた。

グラウンドでは、子どもたちがキャッチボールをしていた。ボールがミットに収まる音が、乾いた空に小さく弾ける。土の匂いが、風に乗って足元から上がってきた。

「おじさん、字を書く人?」

小柄な少年が近づいてきた。前歯が一本抜けている。

「まあ、そんなもんだ」

「じゃあ、僕の名前も書ける?」

「読める字ならな」

「大塚陽斗。太陽の陽に、北斗七星の斗」

「難しい名前だな」

「でも、かっこいいでしょ」

「自分で言うか」

「お母さんが言ってた」

少年はそう言って、照れたように走っていった。

浩一は、古い看板の裏に手を回した。板のざらつきの中に、鉛筆で小さく書いた自分の字が残っていた。

平成3年 春 榊原浩一。

鉛筆の線は、板の繊維に食い込むように濃く残っていた。

看板作りは、思ったより進まなかった。

下地を塗り、乾かし、線を引く。夕方になると塗料の乾きが遅くなった。浩一は小さなストーブの前で指を温め、また筆を持った。昔なら身体が勝手に覚えていた作業に、いちいち時間がかかる。

筆を持つ右手が、長い線の途中でわずかに震えた。浩一は舌打ちし、塗り直した。破った紙は丸めず、裏返して作業台の端に重ねた。

夜、余った紙の端に、ふと思い立って「大塚陽斗」と書いてみた。

北斗七星の斗が、少し小さくなった。浩一は紙を丸めようとして、やめた。4つに折って、作業袋の内ポケットに入れた。

彩乃は、ときどき店に来た。いつもコンビニの袋ではなく、アルミホイルに包んだおにぎりを持ってきた。

「余りものです」

「監督が握ったのか」

「一応」

「一応ってなんだ」

「形が、ちょっと」

浩一は包みを開いた。三角というより、少し横に広い。

「野球のベースみたいだな」

「それ、父にも言われました」

具は鮭だったり、昆布だったりした。塩が少し強い日もあった。

ある日の夕方、二人は店の前の丸椅子に座って、おにぎりを食べた。向かいの工場から、油の匂いが流れてくる。路地の奥で犬が吠え、どこかの家の換気扇から味噌汁の匂いがした。土手の方から帰ってきた子どもたちの声が、路地の入口で一度ふくらみ、すぐに遠ざかった。

「私、向いてないんです。監督」

彩乃が言った。

浩一は返事をしなかった。

「すぐ怒れないし、褒めるのも下手で。父なら、もっと……」

「森下さんは声がでかかったからな」

「そこは似ませんでした」

彩乃はおにぎりの海苔を指で直した。

「でも、辞めるって言うと、父に怒られそうで」

「向いてるかどうかなんて、やってる最中は分からないよ」

口にしてから、浩一は少し驚いた。

昔、妻の恵子に同じことを言われたことがある。店を継いだばかりの頃、仕事が思うように取れず、父の字ばかり真似していた。恵子は黙って茶を淹れ、浩一の前に置いた。あの日の湯呑みは、まだ棚の奥にある。縁が少し欠けている。

彩乃はおにぎりを見つめたまま、小さくうなずいた。

「じゃあ、もう少しだけ、やります」

「少しでいいんだよ」

その夜、浩一は古い段ボールを開けた。

中には、野球チームの写真が束になって入っていた。毎年の卒団写真。泣いている子、ふざけている子、帽子を深くかぶった子。どの写真にも、後ろに看板が写っている。

よく見ると、大人になった顔を知っている者が何人もいた。町工場の社長。区役所で見かける男。消防団の詰所にいる男。先日、看板を外してほしいと来た山田製作所の息子も、真ん中あたりで歯を見せて笑っていた。

浩一は写真を一枚ずつ並べた。

写真の中の子どもたちは、どれも同じ看板の前に立っていた。

浩一は、いちばん古い一枚を段ボールに戻した。続けて、二枚目を戻した。捨てるつもりだった箱のふたは、開けたままにしておいた。

次の日、浩一は空白にしていたチーム名の下書きを始めた。

東陽ファルコンズ。

書き出しの「東」が決まらず、3度消した。右手が重い。それでも、筆を洗う水の濁りを見ると、久しぶりに仕事をしている気がした。

完成の2日前、浩一は河川敷で取り付け位置を確認していた。

脚立の上には上らなかった。腰に少し痛みがあり、左肘にも重さが残っていたからだ。バックネットの前に立てかけた白い看板を見ていると、最後の一文字だけが、やけに遠く見えた。

帰ってから、浩一は作業台の前に座った。

白い看板には、まだ最後の文字入れが残っている。筆を持つと、痛みより先に、手の震えが来た。

「もう、いいか」

店の蛍光灯が小さく鳴っていた。

50周年の日、浩一は行かないつもりだった。

朝から風が弱く、窓の外に薄い日が差していた。湯を沸かし、茶を淹れたところで電話が鳴った。

「榊原さん」

彩乃の声だった。

「来てください」

「まだ仕上がってない」

「はい」

「はいって」

「だから、来てください」

河川敷には、人が集まっていた。

子どもたちだけではなかった。30代、40代、50代の男たちが、古いユニフォームやジャンパー姿で立っている。女たちもいる。誰かの子どもが土手を転がり、母親に叱られていた。

川沿いに吹く風は冷たかったが、グラウンドの土だけは、人の足で少し温まっているように見えた。

バックネットの前には、未完成の看板が立てかけてあった。

「榊原さん」

声をかけたのは、山田製作所の息子だった。浩一が先月、看板を外した相手だ。

「あの看板、まだありますか」

「ああ。店にある」

「よかった」

男は少し黙り、グラウンドの方を見た。

「親父、あの看板の前で、俺の写真を撮るのが好きだったんです」

それだけ言うと、男は目元を指で押さえた。

浩一は何も言えなかった。

彩乃が、一本の筆を差し出した。

「最後の文字だけ、お願いします」

「手が震える」

「みんな知ってます」

子どもたちが黙って見ていた。陽斗が、口を結んで立っている。風がネットを鳴らし、川の方から草の匂いがした。

浩一は作業袋の内ポケットに手を入れた。4つ折りの紙に指が触れた。

それから、筆を持った。

白い板の上に、墨に近い紺色が落ちる。線は、若い頃のようには走らなかった。少し遅く、少し太く、途中でわずかに揺れた。

それでも、文字になった。

東陽ファルコンズ。

拍手は、すぐには起きなかった。

子どもたちは、まず看板を見上げていた。誰かが帽子を取った。陽斗が小さく手を叩き、それにつられるように、ひとつ、またひとつと音が増えていった。

彩乃は帽子のつばを押さえたまま、下を向いていた。

浩一は筆を置いた。指先に残った紺色の塗料が、爪の横に入り込んでいた。落ちにくい汚れだった。昔から、そうだった。

帰り際、陽斗が走ってきた。

「おじさん、僕の名前、覚えてる?」

浩一は作業袋の内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。

大塚陽斗。

少しだけ曲がった字を見て、陽斗は目を丸くした。

「斗、ちょっと小さい」

「そこを見るか」

「でも、かっこいい」

「どっちだ」

「もらっていい?」

「捨てるつもりだった」

「じゃあ、もらう」

陽斗は紙を胸に当て、帽子を取った。内側の汗止めのところに、4つ折りの紙をそっと差し込んだ。

「なくすなよ」

「帽子はなくさない」

「帽子以外はなくすのか」

「たまに」

陽斗はそう言って、またグラウンドへ走っていった。

春になった。

河川敷には、菜の花が咲いていた。冬のあいだ茶色かった土手は、ところどころ柔らかい緑に変わっている。グラウンドの土は乾き、白線が朝の光を受けていた。バックネットには、新しい看板が取り付けられていた。

浩一は土手の上から、それを眺めていた。

陽斗が打ったボールが、三塁線を転がる。彩乃の声が飛ぶ。橋の上を電車が渡り、音が少し遅れて降ってくる。

陽斗が帽子を脱いで汗を拭いた。内側に挟んだ小さな紙が、風に少しだけ浮いた。少年は慌ててそれを押さえ、また帽子をかぶった。

「榊原さん」

彩乃が駆け上がってきた。

「スコアボード、直せますか。数字の板が割れてて」

「まだ働かせるのか」

「不定期でいいので」

浩一は少し笑った。

帰り道、浩一の靴の裏には、河川敷の土が少しついていた。

店のガラス戸に貼った閉店の知らせを剥がすと、糊が残った。指でこすると、古い紙の跡が白く曇った。

新しい紙を一枚取り出し、太い筆でゆっくり書いた。

営業時間 不定休。

書き終えてから、浩一はしばらく筆を置かなかった。

棚の奥には、縁の欠けた湯呑みがある。夕方の光が路地に差し、筆の影を細く伸ばしていく。

遠くで、練習を終えた子どもたちの声がした。

浩一はガラス戸の外へ出て、まだ乾ききらない紙を見上げた。

河川敷を渡ってきた風が、靴底の乾いた土と墨の匂いを、店の古い看板の下で少しだけ混ぜていった。

この作品は【下町】短編小説の一編です。
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