【下町】短編小説『コインランドリーの夜』

夜の十一時を過ぎると、町は洗いざらしの布みたいに静かになった。

駅前の明かりはまだ残っていたが、細い路地に入ると、閉まった理髪店の赤青のポールも、古い家々の軒先も眠ったように暗かった。雨どいの先から、昼間の雨がまだ一滴ずつ落ちている。どこかの換気扇だけが低く回り、遠くで電車が鉄橋を渡る音がした。

スポンサーリンク

相沢拓也は、洗濯物の入った青いバッグを肩にかけ、川沿いへ抜ける道の途中にあるコインランドリーの前で足を止めた。

古い看板には、白い文字で「24時間」と書かれていた。蛍光灯の光に、小さな羽虫が二、三匹寄っている。

ガラス戸の向こうでは、乾燥機が三台、ゆっくり回っていた。白いシャツ、タオル、誰かの靴下。丸い窓の中で、他人の暮らしが何度もひっくり返っている。

拓也は四十六歳だった。

三か月前まで都心の広告会社で働いていた。名刺も、社員証も、毎朝乗る電車の時間もあった。今はどれもない。

実家に戻ってきたが、母の部屋は片づけられないままだった。

部屋のカレンダーは、施設に入った日のまま止まっていた。拓也はそれをめくれずにいた。

カーテンだけが昼間の光を吸い、誰もいない畳の上に薄く影を落としていた。

眠れない夜、拓也は洗うほどでもないシャツを袋に詰めて、ここへ来るようになった。

店内には、少し湿った洗剤の匂いがこもっていた。床の隅に髪の毛が一本落ち、長椅子の端には誰かが忘れた子ども用の手袋が置かれている。自動販売機の光だけがやけに明るかった。

「また来たな」

声をかけてきたのは、作業着姿の老人だった。田辺源造という名を、拓也は先週聞かされていた。聞きたくなくても、老人は勝手に話した。

「洗うもん、そんなにあるのか」

「まあ、少し」

「少しなら家で洗え」

源造は缶コーヒーを片手に、将棋雑誌を膝に置いていた。拓也は曖昧に笑って、洗濯機の蓋を開けた。

返事をしないでいると、源造はそれ以上追ってこなかった。ただ、乾燥機の残り時間を見上げて、「こいつはいつも三分長く回る」とひとりごとのように言った。

しばらくして、ガラス戸が開いた。

小さな女の子が、両手で洗濯袋を抱えて入ってきた。丸い眼鏡をかけ、黄色いカバーのついた図書館の本を脇に挟んでいる。慣れた手つきで洗濯機に衣類を入れ、小銭を数えた。

その後から、看護師らしい女性が入ってきた。髪を耳にかけながら、疲れた顔で会釈をする。大きなトートバッグから、白いタオルを何枚も取り出した。

「こんばんは」

「……こんばんは」

女性は返事を聞くと、少しだけ笑って、タオルの角をそろえながら洗濯機に入れた。

洗濯機が水を吸い込み始めた。ゴウン、ゴウン、と低い音が重なり、店内の沈黙を少しだけやわらかくした。

女の子は長椅子に座り、本を開いた。源造は飴を一つ、彼女の横に置いた。

「知らない人から物をもらっちゃ駄目だぞ」

女の子は本から目を上げずに言った。

「知ってる人ならいいんだろ」

「田辺さんは、ちょっと知ってる人」

「ちょっとかよ」

源造が笑った。看護師の女性も笑った。拓也も、ほんの少し口元をゆるめた。

雨の夜だった。

六月の終わりの雨は、アスファルトを黒く濡らし、ガラス戸に細い線を何本も引いた。川の方から湿った風が入り、入口のマットを少しめくった。

拓也が店に入ると、女の子がひとりで長椅子に座っていた。膝の上の本は開かれたまま、頭がこくりと落ちている。

乾燥機は止まっていた。

拓也は自動販売機で温かいココアを買った。まだ熱い缶を両手で少し冷ましてから、女の子の横に置く。

彼女は目を覚まし、缶を見た。

「知らない人からは、もらいません」

「そうだね」

拓也は少し離れて座った。

「じゃあ、僕が飲む」

「熱いですよ」

「猫舌なんだ」

女の子は小さく笑った。

「名前、聞いてもいい?」

「葵です」

「相沢です」

「知ってます。田辺さんが、夜に来る暗い人って」

「そうか」

拓也は缶を持ったまま、少し下を向いた。

「暗いかな」

「前よりは、暗くないです」

「前を知らないでしょ」

葵は乾燥機の丸い窓を見た。

「洗濯が終わるころには、ちょっと普通になります」

拓也は返事をせず、止まった乾燥機の窓に映る自分の顔を見ていた。

しばらくして、息を切らした男が駆け込んできた。作業着は雨で濡れ、帽子を脱ぐと、何度も頭を下げた。

「葵、悪い。遅くなった」

「平気」

葵は本を閉じた。

男は拓也にも頭を下げた。

「すみません。迷惑かけました」

「いえ、何も」

男は濡れた袖で顔を拭き、もう一度頭を下げた。

そのとき、葵はココアを手に取り、父親に差し出した。

「相沢さん、猫舌だから」

父親は驚いた顔をして、それから笑った。

「じゃあ、パパが助けるか」

拓也は何も言わなかった。ただ、自分の手が空になったことだけを感じていた。

翌週、看護師の女性が来なかった。

その次の週も、来なかった。

ガラス戸が開くたび、拓也は白いトートバッグを探した。源造がそれを見て、にやりとした。

「待ってんのか」

「違います」

「じゃあ何見てんだ」

「入口です」

「入口は逃げねぇよ」

さらに数日して、女性はひょっこり現れた。顔色が悪く、手には病院の袋を持っていた。

「大丈夫ですか」

拓也の口から、先に言葉が出た。

女性は少し驚いて、それから笑った。

「倒れただけです。寝不足で」

「倒れただけ、って言いますか」

「言います。言わないと、明日も行けないので」

女性は洗濯機の前にしゃがみ、タオルを一枚ずつ入れた。

「山下美緒です」

「相沢です」

「知ってます。源さんが、失業中の相沢さんって」

拓也は源造を見た。源造は将棋雑誌で顔を隠していた。

「失業中、は余計ですね」

「でも、嘘じゃない」

「まあ、嘘ではないです」

美緒はタオルの角をそろえてから、洗濯機の蓋を閉めた。

「嘘じゃない言葉って、たまに痛いですよね。休み方って、誰も教えてくれないし」

拓也は返事をせず、洗濯機の水が止まる音を聞いていた。

七月に入って、源造が来なくなった。

最初の一日は、たまたまだと思った。二日目には、拓也は缶コーヒーを二本買った。三日目、葵が長椅子の端を見て言った。

「田辺さん、いないね」

誰も答えなかった。

外では、川風に押された空き缶が路地を転がっていった。店の中では、買ったままの缶コーヒーだけが、テーブルの上で少し汗をかいていた。

数日後、美緒が病院で源造を見かけたと言った。掲示板に、小さな紙が貼られたのはその夜だった。

〈源さん、将棋の続き、待ってます〉

右上がりの丸い字だった。「待ってます」の「す」だけが、少し大きかった。
翌日、その下に別の紙が増えた。

〈缶コーヒー、一本おごります。山下〉

さらに次の日。

〈乾燥機、また三分長く回ってます〉

拓也はその紙の前でしばらく立っていた。ポケットには、折りたたんだ求人票が入っていた。応募しようとして、まだできていない会社のものだった。

彼は備え付けの鉛筆を手に取った。

〈また、余計なことを言ってください。相沢〉

書いてから、少し恥ずかしくなった。だが剥がさなかった。

帰り道、拓也はコンビニに寄った。

牛乳と食パンを買ったあと、少し迷って、二個入りのプリンをかごに入れた。

父が生きていた頃、実家の冷蔵庫にはいつもそれが入っていた。

家には誰もいない。

それでも拓也は、ひとつを明日の朝に食べようと思った。

八月のはじめ、源造は戻ってきた。

少し痩せて、歩くのも遅かった。それでも手には将棋雑誌を持っていた。店に入るなり、掲示板の前で立ち止まる。

「なんだこりゃ」

誰も何も言わなかった。

外では、鉄橋を渡る電車の音が長く響いていた。その音が消えるまで、源造は掲示板の前から動かなかった。

源造は紙を一枚ずつ読んだ。

〈源さん、将棋の続き、待ってます〉

〈缶コーヒー、一本おごります。山下〉

〈乾燥機、また三分長く回ってます〉

そして最後に、拓也の紙を見つけた。

〈また、余計なことを言ってください。相沢〉

源造はしばらく黙っていた。

やがて、「余計なことなら、いくらでもある」とだけ言って、いつもの長椅子に腰を下ろした。

その晩、帰り際に源造が拓也へ小さな紙袋を渡した。

「なんですか」

「暇つぶしだ」

中には、将棋の駒の形をした木のキーホルダーが入っていた。雑な彫りだったが、裏には小さく『相沢』と焼き印が押してあった。

「イヤなら捨てろ」

源造はそう言って、自動販売機へ向かった。

拓也は紙袋をポケットへ入れた。捨てなかった。

数日後。

面接の帰りだった。結果はまだ分からない。拓也はいつものようにコインランドリーへ向かった。

店に入ると、見慣れない若い男が長椅子に座っていた。作業服のまま、濡れたタオルを抱えている。洗濯機の前に座る背中は、ずっと雨に濡れていたみたいに丸かった。

拓也は自動販売機の前で立ち止まった。

少し迷う。財布を開く。そして、温かいココアのボタンを押した。

取り出して男の隣へそっと置く。

「熱いですよ」

男が顔を上げた。

「……ありがとうございます」

拓也は首を横に振った。

「僕も、もらったことがあるんです」

それだけ言って、自分の洗濯物を洗濯機へ入れた。

葵は本を閉じ、美緒はタオルを畳み、源造は将棋雑誌をめくっていた。

誰も特別なことは言わない。

乾燥機が回る。

洗剤の匂いがする。

外では、川の方からぬるい夜風が吹いていた。路地の奥で、古い家の風鈴が一度だけ鳴った。

拓也はポケットの中の木のキーホルダーを指でなぞった。

長椅子の端には、誰かが新しい子ども用の手袋を置き忘れていた。

拓也は手袋を拾い、忘れ物箱に入れた。箱の蓋は、少しだけ温かかった。

この作品は【下町】短編小説の一編です。
他の作品はこちら

下町の小さな八百屋を継いだ矢島圭介。父が残した「レシートのひと言」をきっかけに、人とのつながりを取り戻していく。失ったものは戻らなくても、人の優しさは受け継がれていく――読後に温かな希望が残る下町短編小説。
下町の古いアパートで、住人たちは互いの洗濯物を眺めながら静かに暮らしていた。誰かがいなくなり、空いた場所に気づいたとき見えてくる人とのつながりを描く、温かな余韻の短編小説。
高校時代、言えなかった想いと下町の小さな工場。七年後に帰った町で、主人公は消えた風景の中に残された“音”と再会する。失われたものと残り続けるものを静かに描く、心に余韻が残る短編小説。
高架下の靴修理店を舞台に、靴の減り方に刻まれた人生を描く短編小説。亡き夫の革靴を持ち込む女性と職人の静かな交流を通して、下町の温もりと、歩み続ける人の優しさが心に残る物語。
再開発で消えゆく下町の時計店。亡き妻の面影が残る商店街で、老時計職人が出会う小さな希望。失われた時間と受け継がれる想いを静かに描く、温かな余韻の短編小説。
古い町工場に残された油の匂いと、止まったままの扇風機――。花火の夜に再会した父と息子、そして孫娘。記憶と沈黙の中で、途切れかけた家族の時間が静かに動き出す、下町の再生を描いた短編小説。
スポンサーリンク