7月の終わりだった。
路地のアスファルトは、日が落ちてもまだ昼の熱を吐いていた。
古い家の間から湿った風がゆっくり流れている。
高木恒一は工場のシャッターを半分だけ開けたまま、旋盤の前に立っていた。
東京の下町で小さな町工場をもう50年近く経営している。
油の匂いが染みついた作業場は昼でも暗い。
窓際の扇風機はくたびれた音を立てながら首を振っている。
工具箱を開ける。
探していたノギスは見つからなかった。
しばらくして胸ポケットを探ると、冷たい金属が指に触れた。
ノギスを探していたこと自体を、一瞬忘れた。
息を吐く。
ノギスを握ったまま、しばらく旋盤の前に立っていた。
外からは祭りばやしの太鼓がかすかに聞こえてくる。
今日は花火大会だった。
毎年、この日だけ息子が帰ってくる。
旋盤の電源を落とし、静かになった工場をしばらく眺めていた。
鉄と油の匂いだけが残っている。
*
玄関の引き戸が開いた。
「ただいま」
息子の恒一郎が久しぶりに帰ってきた。
恒一郎の声は昔より低くなっているような気がした。
「おう」
短く返事をすると、その後を追うように小さな足音が廊下を駆けた。
「おじいちゃん!」
孫の美咲だった。
父は少しだけ目を細める。美咲は今年5月で8歳になった。
美咲は靴も揃えず、そのまま工場へ走っていった。
「また行くのか」恒一郎が苦笑いする。「あそこ好きなんだよ」
「油臭いだろ」と父は言った。
「あそこ行くとさ、美咲、帰んなくなるんだよ」と恒一郎は言った。
父は何も言わなかった。
台所の蛍光灯は、少し青白かった。
煮物を盛った皿が3枚、食卓に並んでいる。
5年前に亡くなった母の紀子が毎年作っていた味を思い出しながら、父が自分なりにつくったものだった。
大根の角は崩れ、人参は少し煮えすぎていた。醤油の色が濃く染みている。
換気扇の奥で、古い油の匂いが湿気に混じっていた。
「クーラーつけろって言ってんだろ」と恒一郎が言った。
「電気代もったいねえ」
父はそう言って、味噌汁の椀を持ち上げた。
テレビでは花火大会の中継が始まっていた。
画面の中だけが妙に明るい。
外からは、祭りに向かう人たちのざわめきが細く流れてくる。
「味、濃くね?」恒一郎が訊く。
「そうか?」
「いや……まあいいけど」
箸が止まった。
味噌汁の湯気が、蛍光灯の下で細くほどけていく。
テレビの花火だけが騒がしかった。
恒一郎は父の箸の動きを見ていた。
同じ煮物に2度手を伸ばす。
醤油を探しているようだが、目の前にあることに気づかない。
少し前に話したことをまた繰り返す。
「親父」と恒一郎が言った。
「ん?」
「······いや」
言葉が続かなかった。
父は小さく笑った。
笑ったあと、父は小さく咳をした。
*
河川敷には人が溢れていた。
屋台の灯り。ぬるい川風。浴衣の色。子供たちの笑い声。
夜空にはまだ薄く夕暮れの青が残っている。
美咲はりんご飴を持ちながら二人の間を歩いていた。
「おじいちゃん、パパも昔ここに来てた?」
「ああ」父は小さな声で言った。「毎年来てた」
恒一郎は黙ったまま川を見ていた。
やがて、最初の花火が夜空に開いた。
腹の奥に響く音が遅れてやってくる。
黒い川面に赤や青の光が揺れた。
歓声が上がる。
その光の中で、父がぽつりと言った。
「お前、小さい頃······」
花火が空を裂いた。
父は少し笑った。
「お前、昔……重かったな」
白い閃光が空いっぱいに広がる。
光が消えたあと、川面だけが少し遅れて揺れていた。
屋台の発電機の音が、花火の合間に戻ってくる。
父は空を見ているのか、川を見ているのか、わからなかった。
恒一郎は父の横顔を見た。
浴衣の肩が、昔より少し落ちて見えた。
花火の光が、父の白髪を一瞬だけ照らした。
*
冬だった。
窓の外は、午後になっても明るくならなかった。
硝子の下に白い曇りがたまり、向こうの空は水で薄めたような灰色をしていた。
遠くで鉄を叩く音がした。
ひとつ間を置いて、また鳴った。
下町の古い工場が、またひとつ壊されるらしかった。
病室の床は、靴音を吸い込むように白かった。
父は眠っていた。
酸素チューブの透明な線が、頬の横を細く通っている。
布団の上に出た手は、前より薄く見えた。
恒一郎はコートを脱がないまま座った。
窓際のカーテンが冬の風でわずかに揺れている。
恒一郎は何度か口を開き、また閉じた。
「……なあ」
父は眠ったままだった。
「あの油の匂い」
そこで言葉が止まった。
窓の外で、また金属音がした。
恒一郎は顔を伏せた。
しばらくして、父の口元がほんの少しだけ緩んだ。
返事はなかった。
*
シャッターの隙間に、細い春の光が入り込んでいた。
外では、どこかの鉢植えの土が湿っている匂いがした。
恒一郎は美咲にせがまれて久しぶりに中へ入った。
工場の中は薄暗く、古い油と埃の匂いがまだ残っている。
午後の光が旋盤の上に斜めに落ち、細かな埃だけを白く浮かせていた。
「ねえ、パパ」
美咲が工具箱を覗き込みながら言った。
「ここ、なんか変な匂いする」
恒一郎は旋盤の埃を指でなぞった。
外から、知らない工事の音が聞こえていた。
工場の隅に、黒ずんだ木箱が置かれていた。
ふたの端には、古い油の染みが丸く残っていた。
中には、古い写真や使い込まれた工具が入っている。
そのいちばん下に、小さなビデオカメラがあった。
電源を入れてみると、僅かにバッテリーが残っていた。
ざらついた画像が映し出される。
若い頃の母が笑っていた。
まだ幼い自分が工場の中を走り回っている。
そして最後に、父の声が入っていた。
『危ねえから、ちゃんと見てろ』
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、そのすぐあと、小さく笑う声が入っていた。
画面の向こうで、父が短く笑った。
恒一郎は巻き戻した。
再生ボタンを押したまま、しばらく動かなかった。
画面の中で笑う父を見つめていた。
もう一度父の笑い声を聞いた。
美咲が旋盤に触れながら言った。
「ねえパパ、これ動くの?」
恒一郎はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「ああ。たぶん、まだ動く」
旋盤の上に落ちた春の光が、細かな埃を浮かせていた。
奥の暗がりで、扇風機だけが止まったままだった。