【下町】短編小説『八百屋のレシート』

午後五時を過ぎると、商店街の影は急に長くなった。

魚屋の前から氷を砕く音が聞こえ、向かいの総菜屋では、揚げ終えたコロッケの匂いがまだ油の中に残っている。アーケードの古い蛍光灯は一本だけ点滅し、風が吹くたび、八百屋の軒先に吊るした玉ねぎの網がかすかに揺れた。

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矢島圭介は、店先の段ボールを畳んでいた。

「やじま青果」と書かれた看板は、父の代から変わらない。緑の塗装は端から剥げ、雨の日には木枠が少し膨らむ。昔は夕方になると、客が肩をぶつけ合うほど入ったと父は言っていた。今は、トマトの赤ばかりが、店先で妙に明るかった。

「兄ちゃん、小松菜まだある?」

木村房江が、紫色の買い物カートを引いて入ってきた。七十八歳になるはずだが、声だけは商店街でいちばん若い。

「ありますよ。今日は少し安いです」

「少しじゃなくて、もっと安くしなさいよ」

「それは困ります」

「困った顔が下手だねえ、あんたは」

房江はそう言って、小松菜を二束かごに入れた。

圭介はレジを打ち、レシートを渡そうとして手を止めた。レジ横には、古い大学ノートが置いてある。父の施設へ着替えを届けに行った帰り、店の引き出しの奥から見つけたものだった。

中には、客の名前と短い言葉が並んでいた。

――風邪ひくなよ。

――大根は厚めに切れ。

――孫、受験だろ。うまいもん食わせろ。

父の字は、どれも客の顔を見て書かれていた。

圭介はボールペンを持った。房江のレシートの裏に、ゆっくり書く。

――鍋にすると、明日も食べられます。

渡すと、房江は目を細めた。

「何これ」

「父が、昔やってたみたいで」

「字が固いねえ」

房江はそう言いながら、レシートを財布の奥にしまった。

それから数日、圭介は客に一言を書くようになった。

――今日は寒いです。

――人参が甘いです。

――お大事に。

どれも、どこか貼り紙みたいだった。渡したあとで顔が熱くなる。客も困ったように笑ったり、気づかず袋に押し込んだりした。

ある日、圭介は常連ではない若い男にレシートを渡した。

――今日は温かいものを食べてください。

男は裏を見ると、眉をひそめた。

「こういうの、いらないです」

レシートはレジ横に置かれたまま、男は店を出ていった。

圭介はしばらくその紙を見ていた。

書かなければよかった。そう思った。

閉店後、ゴミ袋をまとめながら、圭介はレジ横のボールペンを引き出しの奥へしまった。

翌日、ボールペンを出さないまま一日が終わろうとしていた。

房江は帰り際、レジ横を見て言った。

「今日は書かないの?」

「……やめようかと思って」

「ふうん」

房江はそれ以上聞かなかった。ただ、いつもよりゆっくり財布を閉じた。

しばらくして、山岸咲が来た。

「大根、まだありますか」

「あります。半分にします?」

「はい。今日は半分で」

咲は財布から小銭を出そうとして、一枚落とした。拾おうとした拍子に、トートバッグの肩紐がずり落ちる。

圭介はレジを打った。レシートが出てくる音が、店の中に細く伸びた。

圭介は、迷った。そして、短く書いた。

――毎日、お疲れさまです。

咲は受け取ると、すぐには読まなかった。店の外に出てから、街灯の下で裏を見た。背中が一瞬止まり、それから小さく頭を下げた。

翌日、咲は娘を連れて来た。

「昨日の、ありがとうございました」

「いえ」

「ちょっと、助かりました」

咲はそれだけ言って、娘の手を引いた。娘はトマトを一つ持ち上げて、「これ、光ってる」と言った。圭介は返事を探して、結局「甘いですよ」とだけ言った。

黒いパーカーの少年が来るようになった。

総菜屋のガラスケースが空になり、魚屋の前に流した水が、通りの端を細く光っていた。アーケードの奥では、コンビニの白い明かりだけが夜の入口みたいに浮いている。

少年はいつも、その明かりの方から歩いてきた。

最初は、コンビニ弁当と一緒に食べるカット野菜だけを買っていた。

「ブロッコリーって、どうやって食うんすか」

ある夜、少年が小さな声で聞いた。

「茹でてもいいし、レンジでも」

「レンジでいけるんすか」

「いけます。水を少しかけて、ラップして」

「へえ」

圭介は、店先のブロッコリーを一つ持った。房に残った水滴が、蛍光灯の下で細かく光っていた。

「最初は、これくらいでいいです」

小さめのものを袋に入れる。

会計のあと、圭介はレシートの裏に書いた。

――最初は三分でいい。

少年は少し眉を寄せた。

「料理の話っすか」

「まあ、料理も、ほかのことも」

「……ふうん」

少年はレシートを丸めず、ポケットに入れた。

房江は相変わらず毎日来て、圭介の字に文句をつけた。

「あんた、もう少し丸い字を書きなさいよ。言葉まで角ばって見える」

「すみません」

「謝るところじゃないよ」

そう言って、房江は白菜の外葉を一枚、指で撫でた。

「でも、悪くない」

父の見舞いには、週に二度行った。

父の正治は車椅子に座り、窓の外を見ていることが多かった。圭介が店の話をしても、うなずくか、手を少し動かすだけだった。

「レシート、真似してます」

父はゆっくりこちらを見た。

「でも、難しいですね。親父みたいには、できない」

父は何も言わなかった。ただ、曲がった指で、膝の上のタオルを何度もならした。

圭介は三年前まで、都内の食品会社で営業をしていた。

父から「店を手伝え」と言われるたびに、「時代が違う」と言い返した。

脳梗塞で父が倒れた夜、その言葉だけが何度も頭に戻ってきた。

店を継いでからも、父はその話を一度もしなかった。

冬の終わり、父の容体が悪くなった。

施設から電話があった日、圭介は市場から戻ったばかりだった。積んできたキャベツを下ろす手が止まり、店先に朝の冷たい空気だけが残った。

閉店後、圭介はレジの売上をノートに書き写した。3,840円。先週も、その前の週も、似たような数字だった。机の引き出しには、商工会でもらった廃業届の書類が入っている。まだ白いままだった。

圭介は白い紙に「しばらく休業します」と書いた。貼ろうとした時、店の前に房江が立っていた。

「何してんの」

「少し、休もうかと」

「少しって顔じゃないね」

房江は買い物カートから、小さな菓子の缶を取り出した。蓋を開けると、中にはレシートが何枚も入っていた。

「これ、捨てられなくてね」

父の字があった。圭介の字もあった。

――転ぶなよ。

――無理して全部食べなくていい。

――今日は少し笑っていました。

房江は何も説明しなかった。

その後ろから、咲が来た。陽菜もいた。

「これ、うちの冷蔵庫に貼ってます」

咲が差し出したレシートには、圭介の字で書いてあった。

――半分の日も、ちゃんと一日です。

陽菜が小さく言った。

「お母さん、これ見てから、カレー作った」

少し遅れて、黒いパーカーの少年が来た。少年はポケットから、折り目のついたレシートを出した。

――最初は三分でいい。

「通信の学校、調べたっす」

それだけ言って、目を伏せた。

圭介は店先の蛍光灯の下で立っていた。

魚屋のシャッターが下りる音がして、総菜屋の油の匂いが風に混じった。クリーニング店の軒先では、取り忘れたハンガーが一本、風に当たって小さく鳴っている。

シャッターの隙間から、どこかの店のラジオが小さく漏れていた。

通りは静かだったが、まだ完全には眠っていなかった。

翌日、圭介は父の施設へレシートの束を持って行った。

父は一枚ずつ見た。時間をかけて、紙の端を指で押さえながら。

最後に、圭介が持っていった白い紙の裏へ、父は震える手で文字を書いた。

――つづけろ。

「つ」の字が、紙の端へ少し流れていた。

圭介は返事をしなかった。

父が眠ったあと、持ってきた大学ノートを何気なく開いた。

最後のページだった。そこには、父の字でこう書かれていた。

――圭介は、人の話を最後まで聞ける。

――あいつなら大丈夫。

書かれた日付は、圭介が会社を辞めるよりずっと前だった。

圭介はページを閉じた。

もう一度開いた。字は消えていなかった。

窓の外では、冬の終わりの光が、病室の白いカーテンを揺らしていた。

「親父」

父は眠ったままだった。

圭介はノートを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。

帰る時、胸のポケットには、「つづけろ」と書かれた紙と、最後のページを写したメモが入っていた。

春が来ても、やじま青果が急に繁盛することはなかった。

アーケードの蛍光灯は、一本切れたままだった。雨の日には、店先の段ボールが少し湿り、晴れた日には、春キャベツの葉が箱の中でゆるく開いた。

それでも夕方になると、やじま青果の前だけは、少し帰りが遅くなる人がいた。

房江は小松菜の値段に文句を言い、咲は仕事帰りに陽菜を連れてくる。黒いパーカーの少年は、ブロッコリーだけではなく、じゃがいもや玉ねぎも買うようになった。

ある雨上がりの夕方だった。商店街の入口には、まだ小さな水たまりが残っていた。そこにアーケードの灯りが映り、通る人の足で何度も揺れた。

咲が会計を済ませると、陽菜がレジ横の紙箱を指差した。

「これ、なに?」

そこには、圭介が置いた小さな箱があった。

――よかったら、誰かにどうぞ。

箱の中には、使わなかったレシートの裏に書いた短い言葉が何枚か入っていた。

――ちゃんと食べてください。

――今日は早く寝ましょう。

――焦らなくても大丈夫。

陽菜は一枚選んだ。

――転んだ日は、温かいものを食べる。

「これ、もらっていい?」

「いいよ」

その帰り道、商店街の入口で、ランドセル姿の男の子がしゃがみ込んでいた。膝に赤い擦り傷があった。

陽菜はしばらくその子を見ていたが、やがてポケットからレシートを取り出した。

「はい」

「え?」

「これ、あげる」

男の子は不思議そうに紙を受け取った。咲は何も言わず、その様子を見ていた。

男の子はレシートを読み、小さく笑った。

「ありがとう」

陽菜は照れくさそうに、咲の手を握った。

その様子を店先から見ていた圭介は、前掛けの端を握った。

閉店後、圭介はレジを締め、大学ノートを開いた。父の古い字と、自分の少し固い字が、同じページの上に並んでいる。

新しいページを開き、しばらく考える。

――今日、誰かに優しくできましたか。

書き終えると、その紙をそっと箱の中へ入れた。

翌朝、店を開けると、一番最初に来た客は、黒いパーカーの少年だった。

少年は箱の中からそのレシートを取り出し、少し考えてから言った。

「……たぶん、昨日はできたっす」

少年はレシートを財布にしまった。

「じゃあ、今日は昨日より少しだけですね」

圭介が言うと、少年は頷いた。

「昨日より少しだけなら、まあ」

少年はそう言って店を出た。圭介はしばらくその背中を見送った。

店の奥の壁には、父の字を写した小さな紙が貼ってあった。

――あいつなら大丈夫。

レジの横には、まだ白いレシートが何枚も残っている。

店の自動ドアが開き、房江の声が聞こえた。

「兄ちゃん、小松菜、今日は安いんだろ?」

圭介はボールペンを手に取った。

この作品は【下町】短編小説の一編です。
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