【下町】短編小説『音だけが残る』

佐伯工場の前を通ると、いつも鉄の匂いがした。

森田悠人は、その匂いをうまく説明できなかった。血の匂いに少し似ていて、それより乾いていて、夏になると油と汗が混じったように濃くなる。学校帰りの白いシャツにまで染みつく気がして、けれど嫌いではなかった。

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工場といっても、路地に面した古い二階家の一階を作業場にしただけの小さな場所だった。シャッターはいつも半分だけ開いていて、中では杏奈の父親が旋盤の前に座っていた。

金属を削る音は、細く、途切れず、路地の奥まで伸びていた。扇風機は首を振らず、同じ場所へ風を送り続けている。ラジオからは、昼間の野球中継の残りみたいな声が、油の匂いの中でかすれていた。

「また見てる」

うしろから声がして、悠人は肩をすくめた。

佐伯杏奈は自転車を押しながら、悠人の横に並んだ。前かごには、スーパーの袋と、町会の祭りのポスターが丸めて入っている。袋の中で缶詰か何かが小さく鳴った。

髪は肩の少し上で切りそろえられていて、汗で頬に張りついた一本を、彼女は指で耳のうしろへやった。

「見てないよ」

「見てたよ。うちの工場、そんなに珍しい?」

「音がするから」

「音?」

「なんとなく」

杏奈は笑った。笑うと、少しだけ目尻が下がる。

「変なの」

二人は同じ高校の3年だった。クラスは違う。帰り道が途中まで同じで、いつからか、商店街の角でどちらかが少し歩くのを遅くするようになった。

7月の終わり、商店街には祭りの提灯が吊られた。昼間の提灯はくたびれて見えた。赤い紙はところどころ色が抜け、針金の輪が曲がっていた。風が通ると、古い紐がきし、と鳴った。

文房具屋の河野さんが、脚立に上がってポスターを貼っていた。白髪頭に汗を浮かべ、首からタオルを下げている。刷毛で糊を伸ばす音が、紙の上でぺたり、ぺたりとした。

「おう、高校生。若いんだから手伝え」

杏奈が先に返事をした。

「はいはい、落ちないでよ、河野さん」

「誰が落ちるか。まだ脚立ぐらい登れる」

そう言いながら、河野さんは降りる時に少し膝を気にした。悠人は見ないふりをして、脚立を押さえた。

ポスターには、花火大会の日付が太い字で印刷されていた。川向こうで上がる花火を、この町では毎年「音だけの花火」と言う人がいた。建物が増えて、昔ほど空が見えなくなったからだ。

「今年も見る?」

杏奈がポスターの端を手でならしながら言った。

「見るって、花火?」

「うん」

「たぶん」

「たぶんって何」

「人、多いし」

「じゃあ、人が少ないところ」

杏奈はそう言って、手についた糊を指先でこすった。爪の間に、薄く黒い油汚れが残っている。工場の掃除を手伝ってきたのだろう。彼女はそれに気づくと、ポケットからハンカチを出して、少し乱暴に拭いた。布が指先をこする音だけがした。

「落ちないよ、それ」

悠人が言うと、杏奈は一瞬だけ手を止めた。

「知ってる」

その声は、いつもより低かった。

佐伯工場は、前から景気が良くないらしかった。悠人が知っていたわけではない。商店街の大人たちが、店先で声を潜めるのを聞いただけだ。機械が古いとか、仕事が減ったとか、娘さんが継ぐわけにもいかないだろうとか。そういう話は、聞こうとしなくても耳に入った。

「私さ、ほんとはこの町、出てみたいんだ」

ポスターを貼り終えたあと、二人は川沿いまで歩いた。夕方の川は、茶色い光をゆっくり流していた。土手の草から湿った匂いが立っている。草の中で、虫がまだ早い夜を鳴き始めていた。

「出るって?」

「どっか行きたい」

「どっかって?」

「ここじゃないとこ」

「工場は?」

杏奈は少しだけ目を伏せた。

「私じゃ、無理だよ」

「……そっか」

「でも、それ言うとさ」

「うん」

「……なんでもない」

悠人は川面を見た。夕日が細く伸びていた。水は流れているのに、どこか動いていないようにも見えた。

自分も、大学に受かったらこの町を出るつもりだった。けれど、そのことを言うと、杏奈の言葉に便乗するような気がした。

川の向こうで、電車が小さく音を立てた。橋を渡る音は、少し遅れて届いた。

花火大会の日、商店街は昼過ぎから落ち着かなかった。

焼きそばの鉄板が鳴り、氷水の中で缶ジュースがぶつかり合った。湿った浴衣の匂いと、ソースの焦げる匂いが混じっていた。

町会のテントでは、河野さんが子どもに光る腕輪を配っている。

佐伯工場の前にも提灯が一つ吊られ、シャッターはいつもより広く開いていた。

杏奈の父親は、作業着のまま丸椅子に座り、缶ビールを片手にしていた。腕は太く、爪は黒かった。

悠人を見ると、軽く顎を上げた。

「杏奈なら奥だ」

「あ、はい」

「花火、見に行くのか」

「たぶん」

父親は少し笑った。

「お前も、たぶんが多いな」

その声の奥で、工場の奥に置かれたラジオが小さく鳴っていた。悠人は何も言えず、頭だけ下げた。

杏奈は奥から出てきた。浴衣ではなく、白いTシャツに紺のスカートだった。足元は履き慣れたスニーカーで、片方の紐が少しほどけている。

「浴衣じゃないんだ」

「暑いし。歩きにくいし」

そう言ってから、彼女はほどけた紐に気づき、しゃがんで結び直した。紐の先が、乾いた地面を軽く叩いた。

二人は人混みを避けて、川下の方へ歩いた。そこは花火がほとんど見えない場所だった。

古い倉庫の屋根とマンションの間に、たまに光だけがにじむ。少し遅れて、腹に響くような音が来る。

ドン、と鳴るたびに、川面がかすかに揺れた気がした。

「ここ、見えないね」

悠人が言うと、杏奈は膝を抱えたまま笑った。

「音はするじゃん」

コンクリートの段は、昼の熱をまだ残していた。腕をつくと、じんわりと温かかった。近くの草むらで虫が鳴き、誰かが落としたラムネの瓶が、風に押されて少しだけ転がった。

「大学、受かったら」

悠人は言った。杏奈は横を見なかった。

「うん」

「たぶん、出る」

「そっか」

杏奈は川の方を見たままだった。

悠人は、そのあとに続ける言葉を持っていた。商店街の角で待つたびに、川沿いを歩くたびに、佐伯工場の音を聞くたびに、何度も口の中で形にした。けれど、その言葉は出なかった。

「私もさ」杏奈が先に言った。

「うん」

「……まあ、いいや」

「工場は?」

杏奈は、ほどけかけた靴紐を見た。

「……さあね」

遠くで花火が光った。音はまだ来なかった。

「わかんないことばっかりだね」

「うん」

しばらくして、音だけが届いた。

その夜、二人は最後まで花火を見なかった。見えなかったと言った方が正しい。

帰り道、杏奈は工場の前で立ち止まった。中では父親が、もう動いていない旋盤の横で、工具を布で拭いていた。金属と布がこすれる乾いた音が、半分開いたシャッターの下から漏れていた。

「じゃあね」杏奈が言った。

「うん」

「また学校で」

「うん」

彼女は何か言いかけたように見えた。けれど結局、髪を耳にかけただけだった。

夏が終わり、受験があり、卒業式が来た。

悠人は町を出た。杏奈も、いつのまにか別の場所で働き始めたと聞いた。誰から聞いたのかは覚えていない。連絡先は残っていた。

7年後、悠人は仕事の帰りに、ふと思い立って下町の駅で降りた。

商店街の上に、まだ明るい夏の夕空が残っていた。電線には、どこから来たのか分からない蝉の声が引っかかっていた。

商店街の入口にあった写真館は、コインランドリーになっていた。乾燥機の回る低い音が、ガラス越しにこもって聞こえた。魚屋は看板だけ残り、シャッターの前に自転車が何台も止まっている。文房具屋はまだあったが、閉店時間でもないのに灯りが暗かった。

佐伯工場の場所には、白い仮囲いが立っていた。新築マンション建設予定地、と印刷された紙が貼られている。工場の名前も、シャッターも、あの首を振らない扇風機もなかった。

仮囲いの向こうから、金槌の音が聞こえた。誰かが何かを作っている音だった。昔ここで鳴っていた旋盤の音とは、まるで違う音だった。

「森田くんか?」

振り向くと、河野さんが店の前に立っていた。前より小さく見えた。けれど、首には同じようにタオルをかけている。

「久しぶりです」

「大人になったなあ」

「河野さんは、あんまり変わらないですね」

「嘘つけ。目、悪くなったか」

河野さんは笑って、仮囲いを見た。

「佐伯さん、最後まで機械磨いてたよ」

「……機械をですか」

「ああ。仕事なんか、もうなかったのにな」

悠人は白い板を見た。

「杏奈ちゃんも来てた」

「最後の日に?」

「ああ」

河野さんは首のタオルで汗を拭いた。

「親父さんと、しばらく立ってたよ」

「工場で?」

「旋盤の前でな」

それ以上、河野さんは言わなかった。

悠人の中に、爪の間の黒い油汚れが浮かんだ。ハンカチで拭いても落ちなかった、あの指先。

「泣いてましたか」

聞いてから、悠人は少し後悔した。

河野さんは、ゆっくり首を振った。

「いや」

それだけだった。

仮囲いの向こうで、また金槌が鳴った。さっきより少し遠く聞こえた。

しばらくして、河野さんが店の方を見た。

「去年だったかな。手紙が来たよ」

「手紙?」

「町会宛てにな。少しだけだけど、って」

河野さんは照れくさそうに首のタオルを直した。

「花火の寄付だよ」

「杏奈が?」

「名字は違ってたけどな」

悠人は何も言えなかった。

「遠い町の消印だった」

「……そうですか」

河野さんは、小さく笑った。

「字は、変わってなかったよ」

遠くで花火が鳴った。

河野さんの言葉は、しばらく風の中に残っていた。

杏奈の父親の低い声が、ふいに耳の奥でよみがえった。

お前も、たぶんが多いな。

見えない花火を、並んで聞いていた夜があった。

悠人は空を見上げた。ビルと電線の間に、花火は見えなかった。昔と同じだった。少し遅れて、腹に響く音だけが届く。

河野さんは店へ戻っていった。引き戸が、からりと小さく鳴った。

商店街には夕方の風が流れていた。どこかの家からカレーの匂いがする。遠くで子どもの声がした。魚屋の看板だけが残っていた。閉まったシャッターの前には、子どもの自転車が2台並んでいた。

その時、悠人は仮囲いの脇に、小さな掲示板があることに気づいた。工事のお知らせや町会の案内が貼られている。

その隅に、一枚だけ見覚えのある紙があった。今年の花火大会のポスターだった。

端が少し風でめくれている。悠人は近づいて、その端をそっと押さえた。昔、杏奈がしていたように。指先に、紙のざらつきが伝わった。

ポスターの下の方に、小さく協賛者の名前が並んでいた。地元の店の名前がいくつも続いたあと、見知らぬ名字の横に、杏奈、という二文字があった。

悠人はしばらく、その名前を見ていた。

遠くで花火が鳴った。音だけが、町の上を渡ってくる。

風が吹いた。ポスターの端が鳴った。

街灯の下で、杏奈という二文字だけが、しばらく揺れていた。

この作品は【下町】短編小説の一編です。
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