田辺和枝は、朝の六時半になると洗濯機を回した。
古い二槽式ではない。息子が十年ほど前に送ってきた全自動の洗濯機だった。それでも和枝は、洗い終わるまでそばを離れない。脱水の音が少し高くなると、まだ壊れていないかしら、と蓋に手を置く。洗濯機は、毎朝小さく震えながら、台所の隅で働いていた。
六月の朝は、まだ暑くなりきらない。裏の路地から、魚屋のシャッターを開ける音がした。少し遅れて、どこかの家の味噌汁の匂いが流れてくる。和枝は洗濯かごを抱え、外階段を一段ずつ上がった。
アパートの物干し場は二階の奥にある。六世帯分の竿が、細い鉄骨に渡してあるだけの場所だった。風の強い日はシーツが隣の領分までふくらみ、雨の日は屋根の端から水がぽたぽた落ちた。
和枝は自分の竿の前に立つと、まずタオルから干した。角をそろえ、皺を伸ばし、両端を洗濯ばさみで留める。次に肌着、最後にブラウス。順番を変えたことは、ほとんどない。
向かいの竿には、石井忠男の作業着が掛かっていた。もう工場には行っていないはずなのに、石井は毎日それを洗って干す。紺色はすっかり薄くなり、襟のあたりだけ白っぽい。
左端には、小林麻美の洗濯物があった。干す時間が不規則なので、夜のうちに出したものが朝露を含んで重たくなっている。小学生の翔太の靴下は、いつも片方だけ変な向きをしていた。和枝はそれを見ても直さない。直さないけれど、見る。
和枝は石井の作業着を見た。次に翔太の体操服を見た。泥が乾いて白くなっていた。
ある朝、麻美の竿から子どもの服が消えた。大人用の黒いシャツと、スーパーのエプロンだけが揺れていた。翔太の靴下も、短パンも、泥のついた体操服もない。
竿には青い洗濯ばさみだけが二つ残っていた。風が吹くたびに同じ場所で小さく鳴った。次の日も、その次の日も、子どもの服は干されなかった。
和枝は階段を下りる麻美の背中を見た。口を開きかけて、足元の洗濯ばさみを拾った。
麻美はもう一階まで下りていた。和枝は拾った洗濯ばさみを掌で転がした。それを竿に戻すまで、少し時間がかかった。
四日目の朝、麻美が物干し場に来た。髪をひとつに束ね、目の下に薄い影があった。
「おはようございます」
「おはよう」
麻美はエプロンを干すと、空いた竿を見ないようにして階段へ向かった。和枝はタオルの端を指で引っ張った。まっすぐになっているのに、もう一度引っ張った。
その週の土曜日、翔太が戻ってきた。階段の下で、ランドセルを背負ったまましゃがみ、何かを見ていた。
和枝が通りかかると、翔太は顔を上げた。
「ダンゴムシ、丸くならない」
「そういう日もあるわね」
翔太は少し笑った。
麻美が後ろから来て、「すみません」と小さく言った。
「翔太くん、向こう?」
麻美はうなずいた。
「少しだけ」
翌朝、翔太の靴下が二足、竿の端で揺れていた。片方は裏返しだった。
夏が近づくにつれ、物干し場の匂いは変わった。洗剤の甘い匂いに、日なたで温まった鉄の匂いが混じる。近くの小学校からプールの水を入れる音が聞こえた。路地では植木鉢の朝顔が、まだ紐に届かない高さで葉を広げていた。
ある日、石井の作業着が干されなかった。
和枝はタオルを二枚干した。洗濯ばさみを留める。もう一枚干す。それから顔を上げた。
隣のシーツだけが風を受けて膨らんでいた。作業着の場所は空いたままだった。屋根の影が少しずつ動いても、その場所だけは埋まらなかった。
石井は会うと帽子のつばに触れた。言葉はその後だったり、なかったりした。けれど、毎朝の作業着だけは律儀だった。雨の日でも、屋根の内側ぎりぎりに干していた。
二日目もなかった。
三日目の朝、和枝は階段の踊り場で高橋典子と会った。典子は給食調理の白いズボンを穿き、髪をネットでまとめていた。
「石井さん、見ませんね」
「昨日、病院の袋持ってましたよ」
「そう」
「まぁ、ああいう人ほど、ねえ」
典子はエプロンの紐を結び直し、階段を下りていった。
その日の夕方、和枝はスーパーで缶コーヒーを一本買った。帰りに石井の部屋の前を通り、ドアノブに掛けようとして、やめた。そういうことを嫌がる人だと思った。
結局、缶コーヒーは自分の冷蔵庫に入れた。
翌朝、石井の作業着が戻った。いつもより低い位置に、少し斜めに干されていた。和枝は洗濯かごを床に置いた。置いてから、また作業着を見た。
昼前、石井と階段で会った。
「暑くなりましたね」
「まぁな」
和枝は缶を差し出した。
「これ、飲みます?」
石井は帽子の下から和枝を見た。
「甘いやつか」
「無糖です」
「なら、もらう」
缶は冷たかった。石井は受け取る前に、掌で汗を拭いた。
その夏は、朝になってもタオルの端が乾かなかった。物干し場の鉄骨は、触るとぬるかった。和枝は咳払いをした。
最初は喉が痛いだけだった。麦茶を飲めば治ると思っていた。ところが夜になると咳が深くなり、胸の奥で紙を丸めるような音がした。
廊下まで聞こえたのだろう。階下から麻美が上がってきた。
「田辺さん」
玄関の外で、しばらく返事を待っている声だった。
「大げさにしないでね」
麻美は靴を脱ぎながら、和枝の顔を見た。
「······顔色、悪いです」
とだけ言った。
入院は十日だった。
病院の窓から見える空は広すぎて、和枝には落ち着かなかった。
朝になると、向かいの病棟の窓が順番に開いた。白いカーテンだけが揺れた。物干し竿はなかった。洗濯ばさみもなかった。誰かの作業着も、子どもの靴下も見えなかった。和枝は窓を閉めた。
退院して三日目の朝だった。
和枝はいつものように洗濯機を回し、洗濯かごを抱えて物干し場へ出た。
路地の朝顔は、いくつか花を閉じていた。魚屋の店先には、秋刀魚の札が出ていた。
石井の作業着がある。高橋家のシーツもある。翔太の体操服もある。
和枝はタオルを広げようとして、手を止めた。自分の竿の中央に、一枚の紙が洗濯ばさみで留められていた。広告の裏だった。
鉛筆の字が、少し斜めに並んでいる。「いつものタオルがないと、あさみたいじゃない」その下に、小さく、しょうた、と書いてあった。
下から足音が聞こえた。翔太だった。
「あ、」
翔太は虫取り網を背中に隠した。
「見た?」
「見たわよ」
「字、へん?」
「読めるわよ」
「じゃ、いいや」
和枝は紙を見た。洗濯ばさみの跡が、小さく残っている。そのまま、もう一度竿に留めた。
和枝はタオルを広げた。端を合わせ、いつもより少し高い場所に留めた。白いタオルが風を受けてふくらんだ。
「今日、高い」
翔太が下から言った。
和枝は洗濯ばさみを一つ付け直した。紙の端が少し浮いた。
「背伸びしただけよ」
風が通った。紙がぱたりと鳴った。
白いタオルは、しばらく高いまま揺れていた。