【下町】短編小説『走り出す日』

荒川の土手へ向かう細い道は、朝の7時を過ぎると、少しだけ忙しくなる。

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古い木造の家の軒先では、植木鉢の土がまだ湿っていた。葉の先から小さな雫が落ち、コンクリートの割れ目に黒い点を作っている。遠くで電車が鉄橋を渡る音がして、そのあとに、保育園へ急ぐ電動自転車の低いモーター音が続いた。川のほうから吹いてくる風はまだ少し冷たく、洗濯物の柔軟剤の匂いと、湿った草の匂いを運んでいた。

水島誠は、店のシャッターを腰の高さまで上げ、いったん手を止めた。

油とゴムと古い鉄の匂いが、店の奥からゆっくり流れてくる。

みずしまサイクル。

白い看板の文字は、前の店主が使っていたものをそのまま残していた。端のほうは雨で少し剥げている。

店先に空気入れを2本出し、中古の子ども用自転車を1台、壁際へ寄せる。前かごのへこんだ自転車の泥を布で拭き、ブレーキを握ってみる。

キー、と小さく鳴った。

「まだ鳴るな」

独り言は、店の奥に吸い込まれた。

妻の典子がいなくなって3年になる。

会社を定年で辞めたあと、家にいる時間が増えた。朝起きて、新聞を読み、洗濯機を回し、昼にうどんを茹でる。二人分の癖で、薬味を多く刻んでしまう日があった。午後になると、部屋の時計の音だけがやけに大きく聞こえた。

そんな頃、近所の自転車屋が店を閉めると聞いた。

前の店主の伊東は、譲る時、工具箱を指で叩いて言った。

「修理はな、自転車じゃなくて人が覚えてる」

水島はその言葉を、今も時々思い出す。

角の丸くなった赤い工具箱は、典子が退職祝いにくれたものだった。会社員だった頃の水島は、何でも早く片づけようとした。食事も、返事も、休日の予定も。

典子はよく言った。

「あなたは、早送りで生きてるみたい」

笑っていたから、責められているとは思わなかった。けれど今になって、その言葉だけが時々胸の奥に残る。

朝の道を、一台の青い自転車が走ってきた。

中学生の橋本芽衣だった。制服のスカートを押さえながら、前かごに膨らんだ通学かばんを入れ、風を切るように走る。かばんの脇には、黄色い子ども用の帽子が押し込まれていた。

信号が変わる直前、芽衣はブレーキを握った。

キーッ。

細い音が土手へ向かう道の上に長く引っかかった。

「危ないよ」

声は届いたかどうか分からない。芽衣は小さく頭を下げたようにも見えたが、そのまま角を曲がって消えた。

翌日も、その音は鳴った。その翌日も鳴った。

4日目の朝、芽衣は店の前で自転車を止めた。

「ブレーキだけ、見てもらえますか」

声は小さかった。けれど、目はまっすぐだった。

「急ぐ?」

「ちょっとだけ」

「じゃあ、ちょっと急ごう」

水島は自転車を受け取った。前輪のブレーキシューが片減りしていた。ワイヤーも少し緩んでいる。そのまま走れば、雨の日は危ない。

芽衣は店先で立ったまま、何度もスマホの画面を見た。

「学校、遠いの」

「土手のほうが早いんです」

「風、強いだろ」

「強いです。でも、早いんで」

水島はワイヤーを締め直し、ブレーキの当たりを確かめた。最後に空気を入れ、布でグリップの泥を拭いた。

「300円です」

芽衣は財布から100円玉を3枚出した。

「空気も入れといたから」

「あ……すみません」

「すみませんじゃないよ」

芽衣は一瞬だけ目を上げた。

「ありがとうございます」

自転車に乗る前、芽衣はブレーキを一度だけ握った。音はしなかった。少しだけ口元が動いた。

その日から、青い自転車は毎朝、店の前を通るようになった。

音はしない。

水島はそのたびに、工具を持つ手を少しだけ止めた。芽衣がこちらを見るわけではない。挨拶をするわけでもない。それでも、ブレーキの音がしないことが、小さな返事のように思えた。

昼前になると、町はゆっくりした顔になる。

向かいの古いアパートでは、2階のベランダから布団を叩く音がした。路地の奥の家からは、煮物の匂いが流れてくる。川沿いを回ってきたらしい宅配のトラックが道幅ぎりぎりに停まり、運転手が汗を拭きながら荷物を抱えて走っていく。

「水島さん、またです」

宅配ドライバーの高橋大樹が、後輪の沈んだ自転車を押してきた。

「またか」

「段差のほうが寄ってきたんですよ」

「段差は寄ってこないよ」

「ですよねえ」

高橋は笑いながら、自販機で缶コーヒーを買ってきた。

「はい、いつもの差し入れです」

「いらないって」

「知ってます」

水島は断りながら、結局受け取った。缶の冷たさが手のひらに残った。

午後には篠田という老人が来た。

乗らない自転車の空気を入れるためだけに、毎週金曜日に来る。

サドルには薄い埃がつき、チェーンには油が乾きかけている。それでも篠田はいつも同じように後輪を押さえ、空気が入る音を黙って聞いていた。

「今日は乗りますか」

水島が聞くと、篠田は土手のほうを見た。

「今日は風がこっち向きだ」

「向かい風ですか」

「追い風でも、今日はやめとく」

毎週、違う理由で乗らない。水島も、それ以上は聞かなかった。

土曜日の夕方、小学生の兄弟がパンクした自転車を持ってきた。弟のほうが泣きそうな顔をしている。タイヤには、河川敷の細かい砂がこびりついていた。

「怒られる?」

水島が聞くと、兄が首を振った。

「まだバレてない」

「じゃあ、バレる前に直すか」

チューブを水に沈めると、小さな泡がぷくぷく上がった。弟が目を丸くした。

「息してる」

「穴が空いてるだけだよ」

「でも、息してる」

水島は返事に困り、パッチを貼った。

修理が終わると、弟はベルを鳴らした。

チリン。

その音に、水島は一瞬、典子のことを思い出した。

典子は自転車に乗る前、必ずベルを一度だけ鳴らした。

「ちゃんと鳴るね」

そう言って笑った。

鳴らさなくても走れる。けれど典子には、その一回が必要だったのだろう。

6月に入ると、雨の日が増えた。

店先のアスファルトは黒く濡れ、タイヤの跡が細く残った。湿った風に、川の匂いが混ざる。シャッターの内側では、乾ききらない雑巾の匂いと、チェーンオイルの匂いが重なっていた。

その週、芽衣の自転車は通らなかった。

1日目は、雨だからだと思った。2日目は、時間が違ったのだと思った。

3日目の昼前、水島は、空気入れを1本しか出していないことに気づいた。中古自転車の鍵も、つけたままだった。

聞けばいい。近所の誰かに聞けば、分かるかもしれない。けれど水島は聞かなかった。

4日目の夕方、青い自転車が店の前に現れた。

芽衣は乗っていなかった。押していた。後輪が大きく歪んでいる。スポークが2本折れ、泥よけがタイヤに触れていた。制服の膝には、乾いた泥の跡があった。タイヤの溝には、土手の下の赤茶けた土が残っている。

「これ、直りますか」

芽衣はそれだけ言った。

水島は自転車を受け取った。

「時間かかるよ」

「待ちます」

「膝は?」

「平気です」

「平気そうには見えないけど」

「平気です」

雨は上がっていたが、空はまだ低かった。土手の上を走る車の音が、湿った空気の中で少しこもって聞こえた。

芽衣は店先の丸椅子に座り、かばんを膝に置いた。指先でブレーキレバーを何度も握る癖が、自転車を離れても残っているようだった。

水島は後輪を外した。リムの歪みを見ながら、1本ずつスポークを緩め、締め直す。力を入れすぎると、かえって曲がる。弱すぎると、またすぐにぶれる。

芽衣はしばらく黙っていた。

店の外を、保育園帰りの親子が通った。子どもが水たまりに足を入れ、母親が小さく声を上げた。そのあと、二人で笑った。水たまりには、曇った空と、店の剥げた看板が一緒に映っていた。

「もう、自転車、やめようかな」

芽衣の声は、工具の音に紛れそうだった。

水島は手を止めなかった。

「そう」

「転んだし」

「うん」

「急いでも、だめですね」

水島は、ニップル回しを少しだけ戻した。

「だめってことはないよ」

芽衣は返事をしなかった。

水島は車輪を回した。まだ少し揺れている。

「でも」

水島は、曲がった泥よけを手で押し戻した。

「この車輪は、まだ替えなくていい」

芽衣が顔を上げた。

「まだ使えますか」

「完全には戻らない。でも、走るよ」

それ以上は言わなかった。芽衣も何も言わなかった。

店の奥で、雨だれがバケツに落ちた。

ぽつん。少し間をおいて、また、ぽつん。

修理が終わる頃には、外の空が薄く明るくなっていた。雲の切れ目から落ちた光が、濡れた道を細く照らしている。

水島は自転車を店の前へ出し、ブレーキを握った。音はしない。後輪を浮かせて回すと、まだほんの少し揺れたが、走るには問題なかった。

「気をつけて」

芽衣は自転車にまたがった。すぐには漕ぎ出さなかった。

「あの」

「うん」

「弟がいて」

「うん」

「朝、学童まで連れてってて」

「そっか」

「だから、いつも遅くて」

「うん」

「でも、転んだら、余計遅くなって」

芽衣は少しだけ笑った。困ったような、照れたような笑い方だった。

水島は、店の奥から小さな反射板を持ってきた。赤いものではなく、黄色い丸い反射板だった。

「これ、つけとく」

「いくらですか」

「余ってた」

「でも」

「余ってた」

芽衣は黙って頭を下げた。

自転車の後ろで、黄色い丸が夕方の光を受けて小さく光った。

芽衣はゆっくり走り出した。濡れた道に、タイヤの細い跡が一本残った。

その背中を見ながら、水島は自分が息を止めていたことに気づいた。

次の朝、青い自転車は通らなかった。
その代わり、昼前に芽衣が歩いて店の前に来た。ランドセルを背負った小さな男の子を連れている。

「弟です」

男の子は水島を見上げた。

「自転車の人?」

「まあ、そうだね」

「お姉ちゃんの、直した人?」

「一応」

「すごい人?」

「すごくはないな」

男の子は芽衣の後ろに隠れた。

芽衣は鞄から小さな紙袋を出した。

「母が、これ」

中には、2つ入りのどら焼きが入っていた。駅前の店のものだった。

「わざわざいいのに」

「渡してこいって。ちゃんと」

「ちゃんと、ね」

芽衣は少し迷ってから言った。

「今日は歩きます。こいつが、まだ怖いって」

男の子が口を尖らせた。

「怖くないし」

「昨日、泣いたじゃん」

「泣いてない。ちょっと出ただけ」

水島は店先の子ども用自転車を見た。前に誰かが置いていった中古で、補助輪が片方だけ古かった。

「乗ってみる?」

男の子は目だけを動かした。

「転ばない?」

「転ぶ時は転ぶ」

芽衣が水島を見た。

「そこ、正直なんですね」

「嘘つくと、あとが面倒だから」

男の子は少し考えて、自転車に近づいた。

「じゃあ、ちょっとだけ」

水島は自転車を出し、サドルを少し下げた。男の子は最初、芽衣の手を握っていたが、やがて恐る恐るまたがった。

「押さえてて」

「押さえてる」

「絶対?」

「絶対」

芽衣が後ろを支えた。

男の子の足が、ぎこちなくペダルに乗る。

半歩、進む。止まる。また半歩、進む。

水島は口を出さなかった。芽衣も急かさなかった。

店の前の細い道を、二人の影が少しずつ動いた。

向かいのアパートのベランダで、布団を取り込んでいた女性が手を止めて見ていた。宅配の高橋が通りかかり、声を出さずに親指を立てた。土手へ向かう風が、男の子のランドセルについた黄色いカバーを小さく揺らした。

男の子は3メートルほど進んで、足をついた。

「乗れた」

「うん」

「今の、乗れたよね」

「乗れてた」

芽衣が笑った。

水島は、赤い工具箱のふたに手を置いた。

その時、道の向こうから、篠田が自転車を押して歩いてくるのが見えた。

いつものように乗ってはいない。ただ、今日はハンドルに手をかけ、土手のほうへ向かっていた。

「今日は乗るんですか」

水島が声をかけると、篠田は少しだけ顔をしかめた。

「乗るとは言ってない」

「じゃあ、押すんですか」

「土手までな。押すだけなら、転ばないだろ」

男の子が篠田の自転車を見た。

「乗らないの?」

篠田は、困ったように笑った。

「今日は、そこまで」

そう言って、ゆっくり歩き出した。

水島は、その背中を見送った。篠田の自転車の後輪が、乾きかけた道に細い跡を残していく。土手の下で、草の匂いを含んだ風が少し強くなった。

夕方、水島はどら焼きを1つ食べた。

もう1つは包装を開けずに小皿へ乗せた。

典子がいた頃、二人でよく使っていた白い皿だった。端に細いひびが入っている。その皿を仏壇の前に置いた。

しばらくして、窓の外で自転車のベルが鳴った。

チリン。

水島は、工具箱のふたを閉めずに、その音の残りを聞いていた。

翌日も、店を開けた。

空気入れを出し、中古自転車を磨き、シャッターを上げる。

土手のほうから風が吹いてきた。昨日より少し乾いた風だった。道端の植木鉢には、新しい小さな芽が出ている。

開店してすぐ、篠田が来た。自転車は押していない。代わりに、片手に小さな袋を持っていた。

「昨日、土手まで行ったよ」

「乗りました?」

「30メートルだけな」

篠田は袋を店先の台に置いた。中には、河川敷の売店で買ったらしい薄いせんべいが入っていた。

「空気、入れといてよかった」

水島は何も言わず、袋を受け取った。

篠田は少し照れたように鼻を鳴らし、土手のほうを見てから帰っていった。

朝7時過ぎ、青い自転車が通った。今日は速くない。

芽衣は店の前で少しだけ速度を落とした。

「おはようございます」

初めて、はっきりそう言った。

水島は布を持ったまま頷いた。

「おはよう」

自転車は静かに走っていった。黄色い反射板が、朝の光を受けて一度だけ光った。

水島は工具箱を開けた。

ふたの裏に、典子が昔貼った小さなシールが残っている。端が少しめくれていた。

水島は親指でそこを押さえ、今日最初の修理に取りかかった。

店先の道には、芽衣の自転車が残した細い光だけが、しばらく揺れていた。

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