短編小説「エレベーターの沈黙」

佐伯修一は、毎朝ほとんど同じ時間に目を覚ます。

7時40分。枕元の目覚まし時計が鳴る少し前に、自然と目が開く。長年の習慣だった。独り暮らしになって10年経つが、その癖だけは変わらない。

キッチンで食パンを焼き、インスタントコーヒーを淹れる。テレビはつけるが、ニュースの内容は頭に入ってこない。誰かが謝罪し、誰かが怒り、誰かが亡くなっている。毎日同じような顔が画面を流れていく。

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8時10分。ネクタイを締め、部屋を出る。

築40年のマンションの廊下は、今日も少し湿っていた。梅雨に入ってから、コンクリートがずっと水気を含んでいる気がする。

エレベーターのボタンを押す。

7階から下降を始めた箱は、5階で止まる。

扉が開く。

森川由里が乗ってくる。

「おはようございます」

「……おはようございます」

それだけだった。

3年間、ほとんど毎朝顔を合わせている。けれど、会話は増えなかった。

由里はいつも白か紺のブラウスを着ていた。布製のバッグを肩に掛け、真っ直ぐ前を見て立っている。香水はつけていないが、柔軟剤の匂いだけが微かにした。

佐伯は彼女のことを何も知らない。名前も、仕事も、家族も。

ただ5階の右奥の部屋に住んでいることだけ知っていた。

知らないままでいることが、このマンションでは礼儀のような気がした。

その朝、遠くで雷が鳴っていた。

エレベーターが3階を過ぎた瞬間、突然、照明が消えた。

ガクン、と鈍い揺れがして、箱が止まる。

一瞬遅れて非常灯が点いた。

薄暗いオレンジ色の光が、二人の顔をぼんやり照らした。

「……停電でしょうか」と由里が小さな声で言った。

「たぶん」と佐伯は言いながら非常ボタンを押した。

しばらく雑音が続き、管理会社の男の声が聞こえた。

『落雷の影響で停電しています。復旧まで少し時間がかかります』

「どれくらいですか」と佐伯は少し無表情な顔をして、低い声で言った。

『まだ分かりません』

通信が切れた。

狭い箱の中に、沈黙だけが残る。

佐伯は自分の呼吸音が妙に大きくなっているのに気づいた。誰かと二人きりでいることに、思っていた以上に慣れていなかった。

「暑くないですか?」と佐伯はこの場の空気を喚起でもするかのように言った。

「大丈夫です」

「そうですか……」

会話がすぐに終わった。

二人ともスマートフォンを見るが、やることはない。電波も弱い。

10分ほど経った頃だった。

由里がふいに言った。「毎朝、同じ時間ですよね」

佐伯は少し驚いた。

「あ……はい」と佐伯はまったくの条件反射的にそう答えた。

「3年くらい」

「そんなになりますか」

「たぶん」と由里は言った。由里は非常灯を見上げながら、小さく笑った。「なんだか不思議ですね。毎日会ってるのに、名前も知らない」

佐伯も少しだけ笑う。

「そうですね」と佐伯は少し照れくさそうに言った。

沈黙が、少しだけ柔らかくなる。

「お仕事は?会社員ですか?」と由里は佐伯に聞いた。

「印刷会社です。もう古い会社で」

「紙の?」

「ええ。最近は仕事も減ってますけど」

由里は頷いた。「私は校正です。在宅で」

「文章の間違いを直す仕事ですか?」と佐伯は言った。

「そんな感じです」

佐伯は妙に納得した。彼女は、言葉を丁寧に選ぶ人だった。

「毎日、お忙しいんですか?」と佐伯は言った。

由里は少し考えてから答えた。「……最近までは」

その言い方が、佐伯の胸に小さく引っかかった。

沈黙が落ちる。

エレベーターの壁が、じわじわ熱を持ち始めていた。

「娘がいるんです」と佐伯なぜか話してしまった。

由里が顔を上げる。

「今は会ってませんけど」と佐伯は言った。言葉は止まらなかった。「離婚して十年になります。仕事ばかりで、家のこと、ちゃんと見てなかったんでしょうね」

自分でも驚くほど自然に口から出ていた。

「この前、成人式の写真を見たんです。SNSで偶然」

喉が少し乾く。

「綺麗になってました。でも……連絡できなかった」

「どうしてですか?」と由里は言った。

「今さら何を言えばいいのか、分からなくて」

由里は何も言わなかった。

その沈黙が、責めているようには感じなかった。

佐伯は続けた。

「昔、妻に言われたんです。“あなたは何も言わない”って」

狭い箱の中で、その言葉だけが静かに残った。

「怒らないし、喧嘩もしない。でも、本当のことを何も話さないって」

由里は視線を落としたまま、小さく息を吐いた。

「……わかる気がします」

そしてしばらくしてから、由里ぽつりと言った。

「母が亡くなったんです。1週間前に」

佐伯は姿勢を正した。

「そうでしたか……」と佐伯は言った。

「長く介護してました」由里の声には、不思議なくらい感情がなかった。「毎朝、薬を飲ませて、着替えさせて。ずっと同じ生活でした」

非常灯が微かに揺れる。

「亡くなった時、悲しいより先に、“終わった”って思ってしまったんです」

由里は自嘲するように笑った。「最低ですよね」

「そんなこと……」と佐伯は言った。正直、どの言葉を口から出せばよいのかわからなかった。

「でも、そのあと部屋に一人でいるのが急に怖くなって」と由里は言った。

彼女はバッグの持ち手を強く握った。「だから毎朝、用事がなくても外に出てました。いつもの時間に、いつものエレベーターに乗って」

佐伯は何も言えなかった。

慰める言葉が見つからなかった。

けれど、その沈黙は苦しくなかった。

外から作業音が聞こえ始めた。

『復旧します』

男の声が響く。

エレベーターが小さく震え、ゆっくり動き出した。

二人は急に黙った。

話しすぎた気がした。

1階に着き、扉が開く。

管理人が心配そうに立っていた。「大丈夫でしたか?」

二人は軽く頭を下げ、それぞれ別の方向へ歩き出した。

佐伯は駅へ向かう途中、スマートフォンを開いた。

娘の連絡先を表示する。

文章を打っては消し、また打つ。

結局送ったのは、短い一文だった。

『成人式の写真を見ました。遅くなったけど、おめでとう』

返信は来なかった。

それでも、送信済みの表示をしばらく見つめていた。

翌朝、雨は上がっていた。

8時12分。佐伯が乗ったエレベーターは、5階で止まる。

由里が乗ってくる。

二人は少しだけ目を合わせた。

佐伯が言う。「今日は、晴れましたね」

由里は小さく笑った。「ええ。洗濯物、干せそうです」

扉が閉まる。

狭い箱の中に、また沈黙が戻る。

けれど昨日までとは少し違っていた。

何も話さなくても、そこにいる理由を、互いに少しだけ知っている沈黙だった。

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